医療の挑戦者たち 32
ペスト菌の発見①
一日でも早く救いたい。
一人でも多く救いたい。
北里柴三郎記念室絵画)ピーテル・ブリュ
ーゲル「死の勝利」 1562年頃/油彩/
板/117×162cm/プラド美術館所蔵:
1525-30年頃、現在のベルギー生まれ。
初期ネーデルラント絵画の主要な画家のひとり。
1569年没。
一五六二年頃、寓意に満ちたこの作品を描いたのは、ブリューゲルである。
題名は〝死の勝利〟。 骸骨の軍隊が、人々のもとに押し寄せ、その襲来に人間は逃げ惑うが、なす術もない。絵の左下に見られる立派な甲冑を身に着けた王でさえ、命もろとも金貨を奪われ、マントを羽織った枢機卿は抵抗もせず骸骨に連れ去られている。絵の右下、饗宴が催されていた円卓の周りでは、剣を手に戦いを挑もうとする男や、逃げ出す若い女、あるいはかがんで身を隠そうとする道化師も見られる。しかし迫りくる骸骨の大軍を前にして、その状況は絶望的である。
相次ぐ戦争や飢饉、異端審問や魔女狩り、そして疫病の流行。
「暗黒の中世」と呼ばれた当時のヨーロッパにおいて民衆の間に広まった逃れられない死の恐怖が、絵の隅々まで広がっている。
この光景を生み出した理由にペストがあった。
腋や鼠径部のリンパ腺がひどく腫れる。じきに黒い斑点が皮膚に現れ、短ければ一日、長くて数日のうちに多くの人が死に至った。原因はわからず、感染を防ぐ有効な対策も治療法もなかった。患者に触れたり同じ空気を吸うだけで伝染すると人々は考え、家族すら看病を放棄した。一方で治療を施そうとした医師や、最期に寄り添おうとした聖職者たちは次々と感染し犠牲になった。また、同じ町に暮らす異教徒たちはペストの原因を押し付けられ、いわれなき迫害を受けた。
ペストは、身分も財産も信仰も関係なく、どこから襲ってくるか見当もつかず、人々を恐怖と混乱に陥れた。ペストは古代エジプトやローマの時代から人類を苦しめていたのではないかと言われている。中世のヨーロッパでは東ローマ帝国など地中海沿岸を中心とした一回目の流行で一億人以上、ヨーロッパ全体を席巻した二回目の流行では約二五〇〇万人という多くの命を奪い、その感染力と致死率の高さで恐れられていた。
そうした歴史を持つペストに、世紀を超えて立ち向かった人物がいる。
一八九四年、一〇〇年近く姿を消していたペストは中国南部で突如姿を現し、やがて香港で大流行を引き起こした。町中が混乱と恐怖に包まれるなか、「過去のような惨劇を、なんとしても食い止めなければ」と、ペストの原因を突き止めるべく、中世にはなかった細菌学を武器に、挑んでいった。
(監修:北里英郎 先生 北里大学医療衛生学部微生物学研究室 教授)
古くから人類を脅かしてきたペスト
地中海沿岸を中心に起こった1回目のパンデミック
ペストという病気がいつから人間社会での伝染病として成立したのかは、明確にはわかっていない。紀元前の古代エジプトにおいても、ペストは人類を苦しめていたという説もあるが、その時代はデング熱や天然痘と混同されていた可能性も指摘される。しかし西洋史における「中世」という時代のなかで、ペストが2回のパンデミック(世界的大流行)を起こしたことは間違いない。中世は5世紀から15世紀とされるのが一般的だが、6世紀に東ローマ帝国を中心に起こった第1回のパンデミックは約200年続き、1億人以上の死者を出したとされる*1。流行の中心は地中海沿岸であったが、ペストはイギリスにまで達したという記録があり、パンデミックはヨーロッパの隅々にまで広がったとも考えられる*2。
*1 Khan I A:Trans R Soc Trop Med Hyg 98, 270-277, 2004 より
*2 村上陽一郎:ペスト大流行 38, 岩波書店, 1983 より
ヨーロッパを恐怖に陥れた2回目のパンデミック
「黒死病」と呼ばれたペスト
ペストは14世紀に第2回のパンデミックを起こす。最も流行が激しかったのは1300年代半ばだが、17世紀にも大きな流行をおこすなど盛衰をくり返しながら18世紀まで続いた。この間、ペストはヨーロッパの人口の3分の1となる2500万人の生命を奪ったという試算がされている*1。しかし米国のCDC(疾病予防対策局)は、ヨーロッパでの死者は5000万人という説*3を採用している。
ペストにかかると皮膚に黒い斑点を生じて死の転帰をとることから、ペストは黒死病(Black Death)と呼ばれ、恐れられた。この時代になると多くの記録が残されるようになり、ペスト流行の様子や人びとの苦しみがリアルに読み取れる。中世という時代には暗いイメージが伴うが、当時は宗教上の異端審問に加え、ペストが流行したことも暗い時代の雰囲気を助長したといわれる。
*3 Benedictow O J:History Today, 55, 3, 2005 より
異端審問
カトリック教会において正統でない信仰(異端)の疑いを受けた者を裁判にかけ処罰する制度。プロテスタント運動の先駆者フスや、フランス軍に従軍した少女ジャンヌ・ダルクも異端審問で火刑に処せられた。
(加藤茂孝:モダンメディア 56, 2, 36-48, 2010より改変)
ペストはアジアからヨーロッパへ流入
ペストがなぜ14世紀にパンデミックを起こしたのか、いくつかの原因が考えられている。1330〜40年代は、地球規模の大干ばつが起き、それに加えてバッタの大発生もアフリカから地中海沿岸、さらにアジア大陸を覆い、大凶作となった。イタリアでは火山の大噴火と地震、中国でも大地震に見舞われ、それが追い打ちとなった。凶作と災害は人びとの栄養状態を悪化させ、病気に対する抵抗力を低下させた。そしてアジアでの穀物の不作によって、ペスト菌の運び屋であるアジアのクマネズミがヨーロッパへと大量に流入した。このときのペストの原発地は中央アジアとも中国ともいわれている。
悲惨な市民生活
なぜペストという病気にかかるのかは、だれにも分からなかった。ある日、鼠径部(そけいぶ=股)やわきの下のリンパ腺に腫れものができているのに気づく。腫れものはどんどん大きくなり、鶏卵大になったり、大きい場合はリンゴほどの大きさにまで腫れあがる。やがて黒っぽい斑点が体中に現れると、弱って死んでいく。すると病人を看病していた人にも同様の症状が出て、同じような経過をたどる。
やがて、この病気は人から人へと移ることが知られていき、病人は看病されることなく、死を待つようになる。墓地が満員になると、巨大な穴を掘って何百もの死体を積み重ね、いっぺんに埋葬する。親でも、子どもでも、兄弟でも、生きながら山野に捨てられる病人は後を絶たなかった。ペストのまん延が社会基盤を揺るがせるようになると、町ぐるみでペスト対策が講じられ、その結果としてペスト患者がいる家の扉や窓に、外側から板をあててくぎを打ち込み閉鎖するという強硬手段がとられることもあった。閉鎖された家には見張りが立ったが、夜中に見張りを殺して家人を救出し、連れ去るといった事件も起こった。
治療法は、ふくらんだリンパ腺を切開するのが一般的であったが、結局は何をやっても効果はなく、ペストが好き放題に荒れ狂った後、自然に他の土地へ移動していくのを待つしかなかった。そしてペストが退散した町では、その感謝の気持ちを表すため「ペスト塔」が建てられた。
黒死病が芸術に及ぼした影響
「死」をテーマにした芸術
ペストの大流行は芸術の世界にも大きな影響を与えた。「死」をテーマにした作品が目立って多くなったのだ。「死の勝利」は最もペストの流行が激しかった14世紀半ばから後半にかけて、イタリアのアンドレア・オルカーニャをはじめ多くの画家の題材となったが、最高傑作は16世紀にネーデルラントのピーテル・ブリューゲルによって描かれたものとする説が多い。すべての人間に訪れることで最終的な勝利者となる死の絶対性が表現されているといわれる。これと似た題材で「死の舞踏」というテ-マも多くみられる。つらい現実からの救済を求めて「聖母マリア」像もよく描かれた。また演劇の世界では、人類の罪を償ったキリストの受難劇が作られ上演されるようになった。
死の勝利(ピーテル・ブリューゲル)
3回目のパンデミックの地、香港へ乗り込んだ北里柴三郎
歴代のペストによる死者は1億人をはるかに超える
3回目のペスト大流行は1894年に香港で発生した。香港は貿易港であったため、汽船にまぎれ込んだネズミにより、ペストは世界へと広がった。しかしペストによる死者は、過去2回のパンデミックよりも少ない1000万人程度とみられる。
これまでに起きた3回のパンデミックにおける死者を合計すると、1億3500万人または1億6000万人ということになり、いかにペストの脅威が大きなものであったのかが想像できる。しかもこの数字は、記録が残っているヨーロッパを中心としたものであり、ペストの原発地とみられる中央アジアや中国、そしてペストの流行が伝わったはずのロシアや中東、アフリカ地域の死者は、かなりの部分が見逃されている可能性が高いのだ。
北里が開いたペストの予防・治療への道
今日でも3回目のペスト流行は完全には終わっておらず、アフリカを中心にアジアやアメリカでも発生しているが、現在は有効な抗生物質があるため、治療が可能な地域であれば、ペストで命を落とすことは少ない。
資料提供/学校法人北里研究所