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医療の挑戦者たち 28

細菌学の創始と発展

受け継ぐ者がいる限り、
進歩は終わらない。

北里柴三郎/ルイ・パスツール/ロベルト・コッホ

科学が進歩し続けられるのは、ある偉大な研究者が画期的な成果をあげれば、あとに続く世界中の研究者たちがそれを足場にして、さらに先へと前進できるからだ。

鉄や石などの無機物は長く見ていても姿を変えることはないが、有機物は絶えず変化している。パン生地はふくらみ、牛乳は酸っぱくなり、落ち葉は茶色に色を変える。

フランスのルイ・パスツールは、これらの作用は、顕微鏡でやっと見える「微生物」の仕業であると主張した。一八六一年に発表された彼の論文は、スープは自然に腐るのではなく、どこからか微生物が侵入し、増殖した結果だということを明らかにしている。彼は細菌学の開祖とされるが、一種類の細菌を単独で培養する方法がなかったため、病気と細菌の因果関係は証明できなかった。

多くの病気が細菌などの微生物感染によるものであることを証明したのは、ドイツのロベルト・コッホだ。彼は栄養素を含んだ固形培地の上では、菌種ごとに独立したコロニー(集落)が作られることを見出し、細菌を一種類ずつ純粋培養することに成功した。そして、ひとつひとつの感染症には、それぞれに対応した固有の細菌が存在することを発見。一八八〇年代には、人類を長らく苦しめてきた結核菌、コレラ菌を相次いで発見している。

感染症に対する具体的な治療法を開発したのは、日本の北里柴三郎だ。彼は一八八九年、不可能とされていた破傷風菌の純粋培養に成功。その翌年には破傷風の治療法として世界初の血清療法を考案した。

彼の快挙を支えた研究スタイルには、コッホの影響が色濃い。三二歳でドイツへ留学し、ベルリン大学のコッホの研究室に入った北里は、病気と病原菌との関係を客観的に証明する基礎的な方法を叩き込まれる。破傷風菌の純粋培養も、この方法によって成し遂げられたものだ。日本へ帰国した後も、北里は香港へ赴き、ペスト菌を発見するなど、感染症の医療に大きな足跡を残した。

北里は留学先のドイツから帰国するにあたり、フランスに立ち寄ってパスツールを表敬訪問している。コッホのもとで研究成果をあげた北里だが、それもパスツールによる細菌学の創始があってのことだった。「学問には国境がない」というパスツールの言葉を実践した北里博士。彼は、科学・医学が前進し、やがて人命を救う臨床医学として花開く仕組みを、身をもって実感したにちがいない。

(監修/北里英郎 先生 北里大学医療衛生学部長)

北里柴三郎/ルイ・パスツール/ロベルト・コッホ

流行病に苦しめられた19世紀ヨーロッパ

都市化の進展で感染症が流行

19世紀ヨーロッパでは急速な工業化が進み、人口増加と都市への人口集中が進行した。都市化の一面としてスラム街が生まれ、そこから不衛生な状況が拡大してコレラやペストなど感染症の温床となった。まだ細菌学の概念がない時代、感染症は明確な原因がわからないまま伝染していく「流行病」として恐れられていた。
都市における疫病
都市における疫病
画家・ドーミエ
(1808-1879、フランス)が
描いた感染症流行地域。

悪い空気と接触病原体

流行病がおこる原因としては、古くから二つの考え方があった。

・悪い空気のような「ミアスマ」

病気は不愉快なものだ。それならその原因も不愉快なもの、不潔なものであるに違いない。しかも流行病の始まりは、まず特定の地域で病気が発生することからだ。それなら、その地域に、目には見えない気体のようなものとして病気の元が発生したのではないか。これはギリシャ語で「病気にする空気」を示す「ミアスマ」と名付けられた。マラリアという病気があるが、これはイタリア語で「悪い空気」という意味であり、類似の概念と思われる。流行病対策としては、悪い空気の臭いを消す目的で、強烈な臭いを放つ石炭酸をまく、香をたく、火を燃やすなどが対策として行われた。
ミアスマの考え方は、後に衛生学という形に進化する。

・外から侵入する「コンタギオン」

目には見えないが、体の外から生命あるものが侵入することにより病気が起こるという考え方を示すラテン語で、「接触病原体」というような意味だ。病気を防ぐにはコンタギオンとの接触を避ければよいので、コンタギオンを持っている患者を隔離したり、病気の流行地域からの人や物の流入を規制するなどの措置がとられた。

コンタギオンの考え方は、後に細菌学として発展する。

ペスト医師(17世紀)ペストを専門とする医師。
ペスト医師(17世紀)
ペストを専門とする医師。
悪い空気を吸わないように、
クチバシのような部分に
香草などを入れた。
(Hollander E: Die Karikatur und
Satir in der Medizin, 171, 1921)

腐敗の原因が細菌だということを証明し
微生物の役割を世に知らしめたパスツール

腐敗は自然に起こるものではない

細菌学の開祖は、意外にも医学者ではなく化学者だった。フランスの化学者パスツールが発酵に関する最初の論文を書いたのは、1857年だった。牛乳が酸っぱくなるのは、それまで考えられていた内部的な変化によるもの(自然発生説)ではなく、顕微鏡で見なければわからない微小な生物の活動によるものだと主張したのだ。さらに彼は3年後、ワインやビールの製造過程について、小球(微生物)が関与しない限りアルコール発酵は起こりえないと書いている。彼は高山では細菌数が非常に少ないことを調査したが、1861年に「空気中に存在する有機的微粒子に関する研究 ―― 自然発生説の検討」と題する論文で、腐敗は自然に起こるものではなく、原因は外から入り込んでくる微生物(細菌)にあると、明確に述べている。
ルイ・パスツール
ルイ・パスツール
(Louis Pasteur, 1822-1895)
 資料提供/学校法人北里研究所
パスツールが描いたブドウ酒中の微生物
パスツールが描いたブドウ酒中の微生物
(Pasteur L: Etudes sur le vin, 67,
Librairie F. Savy, 1875)

自然発生説をくつがえした「白鳥の首」フラスコ

有機物の腐敗が微生物によるものだというパスツールの説には、自然発生説を唱える学者たちから多くの反論がわき起こった。パスツールが当初行った実験は、フラスコの中の肉汁を沸騰させてフラスコの口を閉じると、いつまでも肉汁が腐らないというものだった。これに対しては、沸騰させたときの空気がフラスコ内にそのまま残っているから、肉汁が自然に腐敗できないのだという反論が浴びせられた。

そこでパスツールが考えたのが「白鳥の首」フラスコだ。彼は、口の部分を白鳥の首のように細長いS字型に加工したフラスコに肉汁を入れて加熱した。フラスコの口は開放されているので、空気は出入りできる。しかし、ほこりや微生物は、この長い首の部分を突破できないため、肉汁は腐らなかった。この実験の後も多くの反論が出されたが、やがてだれの目にもパスツールの正当性が認識されるようになっていった。

>白鳥の首フラスコ
白鳥の首フラスコ
(Robbins LE: Louis Pasteur, Oxford University Press Inc., 2001)

微生物がいなければ世界は死んだ有機物であふれる

パスツールは、ソルボンヌ大学の夜の講義で、微生物の役割について分かりやすく説明している。

「目に見えない微生物は、私たちと一緒に暮らし、死んだものを無機のミネラルやガスに変化させるという重要な役割を果たしている。もし微生物がいなければ、たちまち世界は 死んだ有機物で一杯になり、私たちは生きていけなくなるだろう」。

これは上流階級の一般人を対象にした講義でもあり、パスツールの微生物に関する理論は、多くの熱狂的な支持者を作っていった。

純粋培養できなければ病原菌を特定できない

パスツールは、低温殺菌法の開発、ワクチンによる予防接種の開発、酸素がない環境で生息する嫌気性菌の存在を確認するなどの実績をあげた。

彼が病気も微生物によって発生すると考えていたことは明らかだが、当時は1種類の細菌だけを純粋培養する技術がなく、多種類の細菌が混ざった状態のまま培養していたため、病原菌を特定するには至らなかった。

多くの病原菌を発見したコッホ

必要に迫られていた病原菌の特定

1850年代、ヨーロッパでは3年間にわたりクリミア戦争が繰り広げられた。その間、フランスは約1万人の戦死者を出したが、その一方で伝染病と創傷感染による死者は8万人を超えていた。細菌感染の概念がない時代、病室の悪臭がひどくなると「伝染性のガス」が発生したとして、空気の流通をよくしたり、悪臭の発生源である創傷の部位を切り取るなどの措置がとられた。その程度の治療しか受けられないなかで、病人や負傷者は相次いで死亡していったのだ。もし病気が細菌のせいであるなら、その細菌を特定して治療法を確立しなければならないと考える学者が現れるようになったのは当然であった。

固形培地の発明で純粋培養が可能に

パスツールは肉汁のスープなどを用い、液体の培地によって微生物の研究をしたが、ドイツの小さな町の開業医・コッホは、ゼラチンを用いた固体の培地asteriskを考案し、細菌の純粋培養に成功した。彼は、切ったジャガイモの断面にカビが生えるのを見て、固体培地を考え出したと伝えられている。固体培地の上では、菌種ごとにコロニー(細胞塊)が形成されるため、1種類の菌だけを別の培地に移し替えれば、純粋培養が可能になるのだ。そして純粋培養した菌で動物実験などを行えば、病原菌を特定できる。コッホはこの手法により、1876年に炭疽菌を発見。続いて1882年に結核菌、1883年にコレラ菌を相次いで発見し、細菌学を医学の新領域として確立させた。

*コッホは固体培地の材料として、当初はゼラチンを用いていたが、後には、より使い勝手の良い寒天を用いるようになった。

ロベルト・コッホ
ロベルト・コッホ
(Robert Koch, 1843-1910)
資料提供/学校法人北里研究所

病気が感染症であることを示す原則

病原菌の発見に目覚ましい成果を挙げたコッホは1883年、病気と微生物の関係を客観的に証明する方法として「コッホの4原則」を発表した。

コッホの4原則は、コッホの恩師であるヤコブ・ヘンレが考案した3原則に1項目を加えたもので、できたばかりの細菌学のなかで、感染症を特定するひとつの尺度を与えたものといえる。

感染症の治療法を開発した北里

破傷風菌の純粋培養に続き、血清療法を実現

1889年、ドイツに留学し、ベルリン大学のコッホの研究室で学んでいた北里柴三郎は、それまで不可能とされていた破傷風菌の純粋培養に成功する。これは破傷風菌が酸素を嫌う「嫌気性菌」であることを見抜いた北里が、嫌気性環境下で細菌を培養する実験器具を自作した結果であった。彼が純粋培養した細菌は、コッホの4原則に照らして破傷風菌に間違いないことを、彼自身はもちろん、師匠のコッホも確認している。

しかし病原菌を発見しても、その治療法を見つけなければ、感染症に対する医療は成立しない。北里は、すぐに破傷風の治療法を研究し始める。そして翌年には破傷風の毒素を中和する「血清療法」を開発。当時はまだ「抗体」の概念はなかったが、血清中の抗体を利用したこの治療法は、世界を驚かせた。北里は続いて同僚のベーリングとともにジフテリアの血清療法をも完成させた。

細菌を発見するとともに、細菌が引き起こす病気の治療法にまで踏み込んだ研究成果を挙げたところに、北里の真価が発揮されているのだ。

しかし、これまでの経過で明らかなように、北里の成功は、パスツールが微生物の役割を明らかにし、コッホが病原菌特定の方法を発見したことがあって、初めて導かれたものともいえる。

北里柴三郎
北里柴三郎
(1853-1931)
資料提供/学校法人北里研究所

留学からの帰途、パスツールと面会

1892年、留学を終えた北里はドイツで師匠のコッホに対し、ていねいに謝辞を述べた。そしてその後フランスに寄り、パスツール研究所を訪れてパスツール本人と面会した。このときパスツールは、つぎのように自署した自分の写真を北里に贈っている。

「北里博士へ 素晴らしい研究に敬意と祝福を込めて ルイ・パスツール」。

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パスツールが北里に贈った
メッセージとサイン入りの写真
資料提供/学校法人北里研究所