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医療の挑戦者たち 25

心臓バイパス手術

膨大な造影フィルムの読影。
遅咲きの心臓外科医の情熱が、心臓バイパス手術を実現させた。

ルネ・ファバローロ

「給料はいりませんから、私を心臓外科に採用してください」。一九六二年のある日、世界最先端の水準を誇るアメリカ・クリーブランドの病院は、仕方なく彼を臨時の助手として受け入れた。

ルネ・ファバローロ。アルゼンチンの美しい草原に囲まれた小さな町の病院にいた彼は、一念発起してアメリカへ渡った。そのとき、すでに三八歳。助手とはいっても、彼にできることは下働き程度の作業に過ぎない。遅すぎるスタートかと思われた。

だが、彼は猛然と最新の知識を吸収していく。毎晩、仕事が終わると膨大な冠動脈の造影フィルムを調べ始めた。冠動脈が動脈硬化で詰まると心筋梗塞のような病気になり、生命が脅かされる。この病院には冠動脈を映画用フィルムで撮影し、梗塞を正確に診断できる血管造影装置があった。しかし、その治療法に関しては道半ばだった。彼は数多くのフィルムを見ることで冠動脈の形状や構造を学び、めきめきと冠動脈疾患の診断法を身につけていった。

やがて正式に心臓外科医となった彼は、一九六七年、ついに世界初の「心臓バイパス手術」に成功する。切り取った脚の静脈を用い、詰まった冠動脈に血液を供給する新たなルートを作る画期的な手術法だ。それは心臓の医療を一変させ、今日まで形を変えることなく冠動脈外科手術の中心的存在となっている。

四年後、ファバローロは突然帰国する。首都に心臓血管センターを設立し、残りの人生を祖国の人々の治療に捧げた。

(監修/天野篤 先生 順天堂大学心臓血管外科学 教授)

ルネ・ファバローロ

最先端の心臓病治療法を身に付けるため
大草原”パンパ”の町からクリーブランドへ

大草原の小さな病院で

アルゼンチンには「パンパ」と呼ばれる大草原があるが、ファバローロは、その草原に囲まれた町で小さな病院を開いていた。彼は大学の医学部を主席で卒業し、大病院の外科医になりかけたのだが、運悪く政治問題に巻き込まれてそのチャンスを失ってしまった。傷心の彼は、大都市から遠く離れたこの町に落ち着き場所を見つけたのだ。産婦人科から食道がんの手術まで何でもこなし、人種や宗教、診療費の支払い能力で患者を差別することをしない彼は、地域の住民から尊敬され、それなりに幸せであった。だが彼には、大病院で最新の外科医学を身に付けるチャンスを失ったことを悔やむ気持ちがあった。

ファバローロの病院があった町Jacinto Aráuzの大草原
ファバローロの病院があった町Jacinto Aráuzの大草原
ルネ・ファバローロ(René Favaloro, 1923-2000)
ルネ・ファバローロ
(René Favaloro, 1923-2000)

クリーブランドに行きたい

そんな彼にアメリカ帰りの医師から、クリーブランドクリニックは、心臓の冠動脈を撮影し、虚血性心疾患に対する最先端の治療を始めており、間違いなくアメリカの心臓病センターになりそうだという情報が入ってきたのだ。「クリーブランドで心臓病の新しい治療法を身に付けたい」。1962年の2月、彼はその衝動を抑えきれなくなり、アメリカへと飛んだ。
冠動脈

冠動脈
大動脈の付け根から右・左の冠動脈が出ており、
心臓を取り囲むようにして心筋に酸素と栄養を
供給している。

虚血性心疾患
冠動脈が狭くなったり、塞がったりして、心筋が酸素不足に陥る状態。
冠動脈が狭まり心筋が一時的に酸素不足に陥るのが狭心症で、
冠動脈が完全に詰まってしまうのが心筋梗塞。

冠動脈造影は始まったが
虚血性心疾患に対する有効な治療方法は見つかっていなかった

ソーンズの協力で冠動脈疾患の知識をマスター

なかば強引にクリーブランドクリニックの心臓外科に採用してもらったファバローロ。しかし心臓血管外科の知識も経験も不足している彼は、手術の準備や後片付け、その他の雑用をこなしていくしかなかった。だが彼は仕事が終わった夕方から、ぼう大な冠動脈の造影フィルムを見るようになった。そして冠動脈の構造やその狭窄・閉塞のパターンを独学で学び始めた。

そんな彼に注目したのが心臓内科医のソーンズだ。ソーンズは向上心旺盛で学ぶことに熱心な人間とみれば、積極的に力を貸すことを惜しまない、いわば親分肌の人間だった。しかも冠動脈造影法を開発した張本人でもあったのだ。ソーンズはファバローロに、造影フィルムを元にした冠動脈疾患の診断法を惜しげもなく伝授していった。

ファバローロは、やがて正式に心臓外科医となり、自分でも手術を担当するようになった。当時、冠動脈造影によって診断を下すのは心臓内科医で、外科医はその診断結果を頼りに手術に臨むのが常識だった。しかしソーンズから血管造影のすべてを伝授されたファバローロは、自分で血管造影をして診断する初めての外科医となった。
だが冠動脈造影により虚血性心疾患の診断が正確にできるようになっても、決定的な有効性を持つ治療法はまだ見つかっていなかった。

ファバローロ(左)とソーンズ(Captur G.: Malta Medical  Journal 17, 02, 2005)
ファバローロ(左)とソーンズ
(Captur G.: Malta Medical Journal 17, 02, 2005)
メイソン・ソーンズ(Mason Sones,1918-1985)
メイソン・ソーンズ
(Mason Sones,1918-1985)

信頼性が低かった当時の手術法

当時クリーブランドで行われていた虚血性心疾患に対する手術療法のなかで最も盛んに行われていたのは、カナダで開発された「内胸動脈心筋内移植手術」だった。内胸動脈は胸の中を縦に走る動脈だが、これを切断してもとくに体に不都合は起こらない。そこで内胸動脈を切ってその先を虚血が起こっている心筋に埋め込むのがこの手術法だ。すると、時間の経過とともに心筋内に新しい血管が生まれ、内胸動脈からの血液を心筋に供給するようになるというのだ。にわかには信じがたい話だが、ソーンズが造影してみると、確かに有効な例が確認された。

もうひとつの手術法は「パッチグラフト手術」だ。これは冠動脈の狭窄した部分を切り開いた後、内側の動脈硬化した部分を取り除き、最後に切り開いた部分に心膜の切片などを縫いつけて閉じる。これにより冠動脈の内腔が広がるというわけだ。 しかしこれらの手術法は安定した成績を出せず、手術による虚血性心疾患の外科治療は充分な信頼を得ることはできなかった。

内胸動脈(左・右)
内胸動脈(左・右)
パッチグラフト手術(1962年)

パッチグラフト手術(1962年)
冠動脈を切り開き動脈硬化巣部分を取り除いた後、
心膜の切片をあてて縫合する。

心膜
心臓を取り囲む心嚢(しんのう)を形成する線維性の丈夫な膜。

ついに心臓(冠動脈)バイパス手術に成功

ナンバーワン・キラーに勝利した日

1960年代後半になるとクリーブランドクリニックでは、脚の動脈が狭窄して歩きにくくなっている患者や、腎臓の動脈が狭窄して高血圧を起こしている患者に対し、脚の静脈を切り取ってきて病変部の動脈とつなぎ替える手術が盛んに行われ、成果を挙げるようになってきた。ファバローロは、「この手法を冠動脈に応用すれば、虚血性心疾患の手術として有効なのではないか」と思いつき、ソーンズとその方法を検討するようになった。

1967年5月、ファバローロはついにその手術に挑んだ。51歳・女性。ひどい胸痛があり、右冠動脈が閉塞している。彼は女性の脚から静脈を切り取り、冠動脈の閉塞部分とその静脈を入れ替える手術をした。1週間後にソーンズが造影してみると、手術は完璧で冠動脈の血流は完全に回復していることがわかった。しかし、この方法にも問題があったので、その年の秋、動脈硬化部分を切除せず、大動脈や内胸動脈から冠動脈にバイパスする手術を行った。世界初の心臓(冠動脈)バイパス手術は見事に成功したのだ。
この手術成功により、「ナンバーワン・キラー」と呼ばれた虚血性心疾患に対する根本的な治療法が初めて安全性の高い形で提供されるようになった。その後、心臓(冠動脈)バイパス手術は、急速に多くの病院へと普及していった。

ファバローロが実施した冠動脈手術の変遷動脈硬化巣がある冠動脈の部分(B)を切除し、代わりに静脈を吻合する(B’)。
ファバローロが実施した冠動脈手術の変遷
動脈硬化巣がある冠動脈の部分(B)を切除し、
代わりに静脈を吻合する(B’)。
(Favaloro R.: The Challdnging Dream of Heart Surgery,
97, Little Brown Company, 2005)

アルゼンチンの人たちを救いたい

アルゼンチンに心臓血管センターを設立

ファバローロは医学者として成功を収めたばかりでなく、経済的にも恵まれた生活を送るようになった。彼には、クリーブランドの若い医師たちを指導する立場としての役割が期待されていた。つまり、クリーブランドにいれば一生安泰が約束されたのだ。

しかし1971年、彼は突然アルゼンチンに帰国する。心臓外科に入ったときから面倒をみてくれていた先輩医師のデスクには、彼の手紙が残されていた。 「あなたもご存じのように、ブエノスアイレスに真の心臓外科はありません。金持ちはアメリカに渡って治療を受けられます。金持ちでなくても自分の家を売ってアメリカに渡る人もいます。しかしどうしてもアメリカに渡れない人は、ゆっくりと、しかし確実にやってくる死を待つしかないのです。私は、残されたあと3分の1の人生をブエノスアイレスでの心臓センター設立に賭けるため、母国に帰ります」。

アルゼンチンに帰国した彼は、クリーブランドクリニックをモデルにした総合病院と専門クリニックを統合した診療センターをブエノスアイレスに設立した。そのセンターの運営ポリシーは、次のようなものだった。
「どのような患者でも、診療費を払えないという理由で追い出されることはない」。 彼の考えは、パンパの小さな病院にいたときと変わっていなかったのだ。