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医療の挑戦者たち 24

心臓の刺激伝導系の解明

心電図の医学が始まる。
時代はその日本人研究者を待っていた。

田原淳(すなお)

いま、心電図は心臓病を診断する検査の代表格だ。だが、一九〇三年にオランダの生理学者アイントホーフェンが心電計を発明した当初は違っていた。描き出される曲線は現在のものと変わらないくらい正確だったが、その意味をどんな学者も解読できず、医療に役立てることはできなかったのだ。

心電計が発明されたその年、ひとりの日本人が、ドイツの大学の門をくぐった。田原淳(すなお)。「何としても医学の進歩に自分の足跡を残したい」。彼は意欲に満ちていた。

翌年、田原は教授から、心臓の中央にありながら役割がわからない「ヒス束」という筋肉の束の働きを解明するよう命じられた。彼はすぐ研究に取り掛かったが、その手法は非常な根気と忍耐を要するものだった。心臓の筋肉をごく薄くスライスして標本を作ったが、その数は数千、数万に及ぶ。これを顕微鏡で観察するのである。

田原は寝る暇もないほどの過酷な作業に耐え、ついに一九〇五年、心臓には「刺激伝導系」という道筋があり、そこを電気刺激が伝わることで心臓が正しく拍動すること、そしてヒス束もその道筋の一部であることを突き止めた。それに加え、重要な役割を果たす房室結節(田原結節)も発見した。教授からの課題をはるかに超える世界的な発見だ。

田原の研究により、心電図は心臓内の電気刺激の流れを示すもので、波形の乱れにより心臓のどこに異常があるかを診断できることもわかった。

時代は田原を待っていたのだ。心電図は初めて医療に役立つものとなり、心臓の医学は大きく飛躍していく。

(監修/須磨幸蔵 先生 東京女子医科大学 名誉教授)

田原淳

医学的には使い道がなかった心電計を
心臓の診断に欠かせない装置に変えた田原の研究。

「父の気持ちに応えたい」の一念がもたらした成果

1873年、大分県の庄屋の家に生まれた田原は、少年のころから勉強好きだったのを見込まれ、跡取りがいない親戚の開業医の養子となる。やがて現在の東大医学部を卒業、臨床経験を積んだのち故郷に戻り、父の診療所の医師となった。しかし向学心の旺盛な田原はドイツでさらに高度の医学研究をしたいと願っていた。父は最初のうちは留学に反対していたが、田原の志を確かめると考えを変え、洋行を認めるに至った。しかし自費での留学は容易なことではなく、その費用を工面するため、父は先祖伝来の田畑を売却したものと言われている。

ドイツの大学で病理学の研究を始めた田原が、わずか3年余という短期間で世界的な研究「心臓の刺激伝導系」を完成させたのは、「父の気持ちに応えたい」という一念がもたらしたものといわれる。

田原淳(1873-1952)
田原淳
(1873-1952)

心電図に医学的な意義を与えた田原の研究

田原が渡独した1903年、オランダのアイントホーフェンは心電計を発明した。この装置は基本的には現在の心電計と変わらないほど正確に心電図を描き出す性能を持っていた。しかし当時は心電図を読みこなして心臓の状態を診断する方法は確立されておらず、心電計は特段の使い道のない生理学研究用の装置とみなされていた。

今日、心電図が医療の場で診断に役立てられているのは、田原によって心臓の刺激伝導系が明らかにされたことによるものであり、アイントホーフェンがノーベル賞を受賞したのも、田原の研究が心電図に医学的な意義を与えたことによるものと考えられている。

また、刺激伝導系についての研究は、現在、不整脈などに広く用いられているペースメーカーの基礎理論として応用されていることから、田原は「ペースメーカーの父」とも呼ばれている。

ウィレム・アイントホーフェン(Willem Einthoven, 1860-1927)
ウィレム・アイントホーフェン
(Willem Einthoven, 1860-1927)
オランダの生理学者。1903年に
高感度の心電計装置を発明した。
1924年、
ノーベル生理学・医学賞を受賞。

体内の電気活動と、心電図を記録するための研究

体内で起こる電気活動の意味と診断への応用

手足などの骨格筋、腸や肝臓などの平滑筋などの筋肉と同じように、心臓の筋肉(心筋)も刺激を与えられると興奮し電気を生じる。この電気を検出し、記録するのが今日の心電図や筋電図である。もし筋肉に不具合があれば、これらの装置で診断できるのだ。

筋肉以外に発電作用がある細胞は神経で、目や耳、手足の触覚など末梢感覚の情報を脳に伝えたり、脳からの命令を筋肉に伝えたりする役割がある。これらの電気は脳波計で検出することができる。人体が発生させる電気は今日では広く診断に役立てられている。

心電計が発明されるまで

心臓の電気活動の研究としては、19世紀半ばに、カエルの心臓で電気の発生と心拍が同期していることがすでに観察されている。1870年代には心筋に電気活動があることは研究者の間でよく知られるところとなり、その様子を観察するため毛細管式電流計が考案された。これは水銀と硫酸を封入したガラス製の毛細管の両側から電極を伸ばし、体表から発せられる電気で毛細管内の水銀が動くのを観察するものだ。
毛細管式電流計
毛細管式電流計
(Fish C: JACC 36, 6, 1737-45, 2000)

世界初の心電図

そして1887年、イギリスの生理学者アウグスト・ワーラーは毛細管電流計を応用し、電流の変化に応じて心臓が拍動する様子を記録した。これが世界初の心電図ともいえる。

しかし毛細管電流計で得られる曲線は正確さを欠き、これを物足りないと感じたアイントホーフェンが本格的な心電計を作ろうと考えるきっかけとなった。

ワーラーが記録した心電図
ワーラーが記録した心電図
上の線(t):時間経過
中の線(h):拍動による胸表面の動き
下の線(e):心電図
(Waller AD: J Physiol 8, 229-34, 1887)

巨大だが正確だったアイントホーフェンの心電計

すばらしい心電図は得られたが…

1903年、オランダのアイントホーフェンは「弦線電流計」という心電計装置を発明した。これは重量350kg、大きさは二つの部屋を占領するほど巨大なもので、その操作は5人がかりだったとされる。

装置の形は武骨でいかにも時代遅れに見えるが、その性能はすばらしく、描き出す心電図は、基本的に今日のものと変わらない。

このように鮮明な心電図を得られるようになると、その曲線の意味を知りたくなるところだが、当時の学問的水準はそこまで達してはいなかった。時代は、まさに田原の研究を待っていたともいえるのだ。

アイントホーフェンが発明した巨大な心電計
アイントホーフェンが発明した巨大な心電計
(Johnson S:The History of Cardiac Surgery
1898-1955, 20, 1970)
アイントホーフェンの心電図
アイントホーフェンの心電図
・上の線:時間経過(1目盛は0.1秒)
・中の線:正常心電図
・下のグラフ:実際に描かれた心電図
アイントホーフェンは曲線の特徴的な部分に
「P、Q、R、S、T」の記号を付けたが、当初は
それを意味づけることはできなかった。
(Johnson S:The History of Cardiac Surgery 1898-1955, 19, 1970)

大いなる医学的野心を胸にドイツへ

基礎研究で大きな仕事をしたい

ドイツに渡った田原は、ベルリン大学の「シャリテ(慈善)」と呼ばれる付属病院で講義を聴講し、臨床経験を積んだ。帰国してからのことを考えれば、「シャリテ出身」という肩書は大いに箔が付き、万事が有利に運ぶことになる。しかし田原は、それだけでは物足りなかった。医学の本場に来た以上、知識や臨床経験を身に付けるだけでなく、基礎研究という分野で医学の進歩に足跡を残したいという気持ちが強くなってきたのだ。

意を決した田原は、マールブルク大学のアショフ教授に手紙を書き、その病理学教室に入った。

マールブルク大学にて田原(右)とアショフ教授
マールブルク大学にて田原(右)とアショフ教授
(須磨幸蔵:ペースメーカーの父・田原淳,179,梓書院, 2006)

根気と忍耐の研究スタイル

そのころドイツでは、心臓衰弱(心不全を中心とした病態を指す当時の病名)の原因を心筋の炎症とする新説が話題となっていた。田原は教授から、その説の真偽を確かめるよう指示を受けた。教授から預かった心臓の病理標本は120例もあったが、田原はそれを小さく切ってパラフィンで固め、さらに厚さ2~15ミクロン(1ミクロンは1000分の1mm)の 薄い切片に切り分けて顕微鏡用の標本にした。標本数は当然何千、何万という単位になるが、田原はそれを1枚ずつ丁寧に顕微鏡で観察していった。人並み外れた根気と忍耐 を要求される研究スタイルだ。

そして田原は、心臓衰弱の原因に関する新説は誤っており、さらに従来からの説も間違っていることを証明した。

田原結節からヒス束、プルキンエ線維へと続く心臓の刺激伝導系を発見

「ヒス束」の解明に取り組む

つぎに田原が教授から提案されたのは「ヒス束」の役割を解明するという研究テーマだった。ヒス束は心房と心室の間に位置するため「房室連結束」とも呼ばれるが、その役割は不明で、教授は可能性として心房の拍動の刺激を心室に伝えるもの、あるいは心臓衰弱と何らかの関係があるものという仮説を考えていた。田原も教授に賛同し、それを研究テーマとして取り組むことにした。
心臓の刺激伝導系
心臓の刺激伝導系

「田原結節」の発見

田原はまた心臓の組織標本づくりから始めた。そして顕微鏡で観察しているうちに、ヒス束の上部に細い心筋線維が入り乱れてコブのようになっている部分(結節)を発見した。これは「田原結節」あるいは房室結節と呼ばれ、心房と心室が収縮するタイミングをわずかにずらすことで、心臓内の血液の流れをコントロールする重要な役割を果たしている。

ヒス束と「プルキンエ線維」はつながっている

しかしヒス束が下に伸びているその先がどうなっているのか、それを探る作業は深いジャングルの中をクモの糸1本を頼りにさまようのにも似た、困難なものだった。ヒス束の先端を確認するのは無理なのかと思い始めたあるとき、田原の頭にはある考えが急にひらめいた。「プルキンエ線維だ!」。

その60年ほど前、プルキンエという生理学者が心室の内側に線維状の組織を発見していた。その役割については30近い学説があったが、決定的なものはなかった。田原はヒス束の先端が右脚と左脚に分かれ、それがさらにプルキンエ線維に接続しており、刺激を心室に伝えているのではないかという仮説に至ったのだ。田原はプルキンエが発見したのと同じヒツジを用いて研究を続けると、すぐにヒス束とプルキンエ線維が接続していることが確認できた。

これで田原の刺激伝導系の研究は見事に完結したのだ。

田原の研究は、波形の意味を解明し、心電図による診断を可能にした

体内で起こる電気活動の意味

田原の研究は心電図の解析に道筋をつけた。心電図は心臓の内部を伝わる電気刺激を描くものであり、電気刺激の道筋である伝導刺激系が解明されたことにより、心電図 のどの部分が心臓のどの部分に対応するかが明らかになった。これにより心電図のどこかに異常があれば、心臓のどの部分に異常があるかも判断できることになる。

心電計を発明したアイントホーフェンは、さっそく1908年「さらに心電図について」という論文を書き、心電図の理論的裏付けを行った。

心臓の刺激伝導系、心電図
(五島雄一郎ら:心電図のABC, 7,日本医師会, 1993)

200ページにも達した田原の論文

田原の論文を自分の父親に贈った教授

田原の論文『哺乳動物心臓の刺激伝導系』は、ぼう大な研究内容を反映して200ページもの厚さとなり、きちんと製本した書籍として出版された。また論文にアショフ教授の名前はなく、田原の単名での出版となった。これは故郷の診療所で待つ父親に留学の成果を持ち帰りたいという田原の心に教授が応えた結果であった。

田原の論文が出版されると、さっそく教授はそれを自分の父親に手紙とともに贈った。アショフの父もやはり医師だった。その手紙には、次のような記述がみられる。

「私のもとで二年半心臓の研究を行った田原博士の出版されたばかりの著書をこの復活祭に送ります。この本には日本人学徒の非常な勤勉さを見ることができます。この本 は、父上が私に今まで与えてくださったご薫陶に対する私のささやかな感謝の気持ちであります。私は学問的業績を挙げることで、父上への感謝の気持ちを表したいと 思っております」。

アショフもまた、父親思いであった。

田原の論文『哺乳動物心臓の刺激伝導系』
田原の論文『哺乳動物心臓の刺激伝導系』
田原の心臓スケッチ
田原の心臓スケッチ
(Tawara S: Das Reizleitungssystem
des Saeugetierherzensより)