「心」という漢字は、心臓の形から生まれた象形文字だ。洋の東西を問わず、心臓は精神と直結する神聖な臓器という考えがあり、外科的治療を加えてはならない臓器であった。
一八九六年のある日、ドイツ・フランクフルトの病院の外科部長ルートヴィッヒ・レーンは、歴史的な決断をすべきか迷っていた。胸を刺され、救急馬車で病院に運ばれた若者。傷は心臓に達し、脈拍は途切れがちだ。呼吸は浅く、死線をさまよっている。治療するには、心臓に針を刺し、傷を縫い合わせる必要がある。
「可能性はわずかだが、手術だ」。心を決め、素早く麻酔をかけた。胸を切り開くと、そこに傷ついた心臓が動いていた。その動きで右心室の傷が開く瞬間をねらい、縫合針を傷の縁に刺す。それを三回繰り返し、どうにか縫合を完了した。
興奮が静まると、不安が襲ってきた。「この若者は助かるだろうか。もし助からなければ、私の手術は不当だと非難されてしまうのだろうか」。だが、心拍の乱れ、発熱などの経過はあったものの、やがて若者は快方に向かった。
当時の外科の権威であるビルロートは、「心臓の傷を縫合しようとする外科医は、仲間の敬意を失うであろう」と述べている。その地元ドイツで、逆境を押しのけて達成した快挙だった。
直後に開催された外科学会で、レーンは世界初となる心臓縫合手術の成功を報告した。参加した医師たちは講演を聞きながら、「心臓外科」に正当な医療としての道が開かれていく喜びを感じていた。
前人未踏だった心臓外科は、彼の輝かしい業績をバネとするように、このあと急速に発展していく。
(監修 / 川田志明 先生 慶応義塾大学 名誉教授・山中湖クリニック理事長)