医療の挑戦者たち 6
メスを使わない脳動脈瘤治療
日本人の「命を支える杖」でありたい。
北里柴三郎
一九五九年五月。ソビエト連邦(現ロシア)の首都モスクワ、「赤の広場」。若き脳外科医、フェドール・セルビネンコは、メーデーの祭典でにぎわう広場の一点を見つめていた。広場を埋め尽くす群衆の中に、風船の糸を上手に操っている子どもがいた。彼は、その様子を身じろぎもせずに観察しているのだった。
それから十二年後の一九七一年、セルビネンコは脳動脈瘤の内部に小さな風船(バルーン)を入れ、動脈瘤の破裂を防ぐという画期的な治療法に成功した。脳動脈瘤は、脳の弱った血管が「コブ」のように膨らむ病気だ。もし破裂すれば、脳の表面に出血が起こる「くも膜下出血」という命に関わる病気になる。
彼は、頭にメスを入れることなく、カテーテル(細い管の医療器具)を脳の血管に通し、脳のコブの内部まで到達させて先端の風船を膨らませ、風船を残してカテーテルだけを引き抜くという離れ業をやってのけた。これで、動脈瘤は風船に保護され、破裂を免れるというわけだ。
頭にメスを入れることなく脳動脈瘤を治療するカテーテル法。その後いろいろな医師が試したが、安定した治療成績が得られず、あまり普及しなかった。しかし、一九九○年代に入り、風船ではなくコイル状の針金を瘤の中に詰める「コイル塞栓術」が開発された。
このコイル塞栓術の登場により、カテーテル法は急速に世界に広まっていった。現在では、一般的な治療法として確立されている。
(監修 / 高倉公朋 先生 東京大学 名誉教授 東京女子医科大学 名誉教授)
頭にメスを入れずに脳動脈瘤を治療する脳血管内治療の新時代を開いたセルビネンコ
脳動脈瘤への血流を止め、くも膜下出血を防ぐ
脳の動脈にできたコブ(脳動脈瘤)が破裂すると「くも膜下出血」が起こる。この脳動脈瘤破裂を防ぐ方法としてまず考えられるのは、コブへの血液の流入を止めることである。1930年代には、脳動脈瘤の根元をクリップではさむことでコブへの血液の供給を止める方法が開発され、これが一般的な治療法として普及していった。しかしクリップによる治療は万能ではない。まず脳の奥まった部分にある動脈瘤では、執刀医の指が届かない場合がある。また動脈瘤が大きすぎてクリップできない場合もある。
メスを使わない脳動脈瘤の治療が可能に
要は脳動脈瘤の内部に、血液が流入するのを防げばいいのである。そこで1971年にセルビネンコが発表したのは、コブの内部にバルーンを挿入し、コブと同じサイズまで膨らませる方法である。そして彼の方法が画期的だったのは、メスによる開頭手術をしない脳動脈瘤の治療を可能にしたことだ。カテーテルを脳の血管に通し、脳動脈瘤の内部まで到達させて、先端に付けた離脱式のバルーンを膨らませ、バルーンを残したままカテーテルだけを引き抜く。すると脳動脈瘤内にはバルーンが残っているため、血液の流入をブロックし続けるのだ。
(Fedor Serbinenko, 1928–2002)
離脱式バルーンで300例以上を治療
脳動脈瘤をバルーンで塞栓
セルビネンコの論文は1974年に英語版が出ており、その中から一例を紹介する。脳底動脈の動脈瘤はクリップを使えない場合も多いが、彼はこれを見事に治療している。左の写真は治療前で、膨らんだ動脈瘤に対し、血液が供給されている状態。右はバルーン留置後で、脳底動脈から瘤への血液の供給は止まっている。 彼はバルーン塞栓法により、300例以上を治療した。
長くは続かなかった離脱式バルーンの時代
脳動脈瘤の破裂がくも膜下出血を起こす
くも膜下出血とは
ヒトが生きていくためのコントロールタワーともいえる大切な臓器、「脳」は3層の膜で保護されている。そのうち「くも膜」と脳の間のスペース(くも膜下)は脳脊髄液で満たされており、また脳に栄養を与える主要な脳動脈が走っている。このくも膜下の動脈が切れると、くも膜下出血が起こる。
くも膜下出血が起こると、突然の頭痛を感じ、嘔吐したり、意識を失うことも多い。脳に重篤な障害をもたらすことが多く、生命にかかわる大事になることも少なくない。
くも膜下出血を起こす原因のほとんどは脳動脈瘤の破裂
くも膜下を走る脳動脈の一部が弱くなり、血圧に負けてコブのように膨らんだものが脳動脈瘤だ。くも膜下出血の原因の8~9割は、脳動脈瘤の破裂だとされる。破裂しやすいのは小さいものよりも、大きく膨れた脳動脈瘤で、高血圧、喫煙、過度の飲酒は破裂のリスクを高めることになる。くも膜下出血は脳卒中の一種に分類されるが、他の脳卒中と違い、女性や、比較的若い世代にも多い疾患である。