一八九一年(明治二四年)のある日、イギリスのケンブリッジ大学から、北里柴三郎に一通の書簡が届いた。開けてみると、新設される細菌学研究所の所長に就任してほしいという内容だった。日本の「近代医学の父」として知られる北里博士が若い頃、六年余りのドイツ留学を終えようとしていたときのことである。
感染症が人類の最大の脅威であったこの時代、細菌学は最先端の学問領域だった。北里は、結核菌やコレラ菌の発見で有名なロベルト・コッホの研究所に入ると、東洋人への偏見を打ち破り、ヨーロッパでも圧倒的な業績をあげた。世界初の破傷風菌の純粋培養に成功後、破傷風の血清療法を考案し、その技術をジフテリアの予防に応用するなど、目覚ましい成果をもたらした。
ケンブリッジからのオファーは、研究所の規模、設備、待遇、すべてが理想的だった。何よりも、十三世紀から続く名門大学の研究所長になることは、北里の名声を世界で不動のものにする大きなチャンスでもあった。しかし、北里はこれをあっさり断ってしまう。その後、アメリカの大学からもさらに上回る条件が示されたが、すべて丁重に辞退してしまった。
北里には、ひとつの強い思いがあった。ドイツでの師匠・コッホは、ドイツ国民の「命を支える杖」として細菌学を向上させたいんだ、と北里に打ち明けたことがある。微生物学の大家であるルイ・パスツールも、イタリアの大学からの招きを断り、戦災で荒れ果てた祖国フランスで微生物研究所を開設した。彼は「科学に国境はないが、科学者には祖国がある」という言葉を残している。
これから帰る日本には、まだ北里が入るべき研究所すら存在しない。しかし、北里には国費を注ぎ込んでドイツ留学を許してくれた祖国への感謝と、その期待に応えたいという気持ちの高揚があった。「コレラ、結核、ペストなど、多くの感染症に苦しむ祖国の人たちのために働こう」。
北里は、日本人としての自分に課せられた使命が「命を支える杖」であることを、固く信じていたのである。
(監修/北里英郎先生 北里大学医療衛生学部長)