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医療の挑戦者たち 3

日本近代医学の父

日本近代医学の父は、多くの医学者の育ての父でもあった

北里柴三郎

「ドンネル」とは、ドイツ語で「雷」の意味である。それは、明治二七年(一八九四年)に設立された伝染病研究所の中で、所長の北里柴三郎博士を指す言葉でもあった。
北里博士はドイツ留学中、破傷風菌の純粋培養に成功するなど世界的な業績をあげ、今日では「日本近代医学の父」と呼ばれている。当時、伝染病研究は最先端の学問であり、全国から俊英たちが集まっていた。そんな彼らに対しても、怠慢を見つければ「馬鹿者!」と容赦のない雷を落とすのが北里の常であった。
その雷おやじが所員たちの前で泣いたことがある。北里の知らないうちに、伝染病研究所を文部省に移管することが決まり、それに憤慨した北里は辞表を出した。すると、研究員たちも北里とともにこぞって退職してしまう。いつも畏れられていた北里は、実は愛されていたのである。そして、北里は国から独立した機関として、新しい研究所を立ち上げることになった。大正三年(一九一四年)、北里研究所発足の慰労会で挨拶をする「ドンネル」の目から大粒の涙があふれ出したのである。
北里研究所からは多くの世界的な研究者が輩出されている。赤痢菌の発見で知られる志賀潔。黄熱病の研究で名を成した野口英世。狂犬病の予防液を作った梅野信吉。梅毒の特効薬・サルバルサンを創製した秦佐八郎など、まさに多士済々である。
北里は人材育成の面からも、日本の近代医学を打ち立てた偉大な人物といえるのだ。
(参考文献/山崎光夫 著 「ドンネルの男・北里柴三郎」)
(監修/北里英郎先生 北里大学医療衛生学部長)
中央:北里柴三郎、左から秦佐八郎、梅野信吉、野口英世、志賀潔
資料提供/ 学校法人北里研究所
(中央:北里柴三郎、左から秦佐八郎、梅野信吉、野口英世、志賀潔)

日本の医学・医療を育てるために

将来をになう門下生を育てる

北里は、ドイツへ留学する前から赤痢菌の研究をしていたが、帰国してから赤痢菌の研究は志賀潔に託した。志賀潔は自伝に「ほとんど北里先生から付ききりで指導された」と書いている。しかし「赤痢菌発見」という世界的な偉業は、志賀潔だけの名前で発表させている。北里のやり方は他の門下生にも同様で、常に彼らが実力を思い切り伸ばせるような状況をつくることを考えていた。このような教育方針が、多くの優れた研究者を輩出することに役立ったのは間違いない。

医学・医療の将来への布石をうつ

香港でペストの調査研究にあたった北里は、帰国するなり伝染病対策の指針づくりに取り組み、1897年に伝染病予防法の成立にこぎつける。そしてその2年後、日本に上陸したペストは、新しい法律が効を奏し、被害を最小限にとどめることに成功した。

北里は慶應義塾大学医学部の創設、日本医師会の設立など、日本の医学・医療の発展のために尽力した。

北里柴三郎と体温計工場

日本に帰ってきてからの北里は、一貫して国家・国民的なスケールで、医療の進歩や健康維持の普及に大きな貢献をした。しかしその北里が、例外的に私企業の設立に関わったことがある。第一次世界大戦の影響で輸入が途絶えた体温計を国産化するために、北里柴三郎博士をはじめとする医師たちが発起人となり、1921年に設立された体温計工場、それがテルモの生い立ちである。

写真は設立当時の体温計工場

体温計工場